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みどころ – 宮殿
バリ島の文化や自然、癒し、インスピレーションなどに興味がある方は、まずウブドを訪れることがバリを知る一番の近道になると言ってもよいでしょう。ウブドにはバリの魅力が一同に集まっています。美しいライスフィールド、小さな村落、芸術や手工芸品の工房、古代寺院、宮殿、河川、美術館や伝統市場など、ウブドにはバリの魅力が一同に集まっています。デンパサールから約25キロ、島の中心地に位置するウブドからは山間部やビーチ、主要都市部へも便利な距離に位置しています。
ウブドには百年以上も昔から「王族の街」として知られています。現地で「チョコルダ」や「アグン」という称号で呼ばれる王子たちは、現在も「プリ」と呼ばれる伝統的な宮殿で暮らしています。けれども「プリ」と呼ばれる場所すべてが宮殿というわけではないのでご注意ください。
近年、こうした言葉の使い方はとても自由になってきています。またウブドには宮殿が一ヶ所というわけではなく、ウブド市場周辺に多くの宮殿が点在しています。
ウブド地区には数ヶ所の「王族」都市があり、ウブドのチョコルダの親類にあたる王族たちは独自の宮殿に暮らしています。こうした親族関係はサヤンやペジェン、シンガパドゥ、プリアタン、パヤンガンなどのプリに住む姫との婚姻関係などで広がったものです。
プリ・サレン・アグンは舞踊の公演などが行われる中央宮殿です。街の中心部にある交差点の北東部にあり、とても目に付く場所にあります。ここはウブド最後の「王」の住まいであり、現在はその子孫たちが暮らしています。ウブドのほかの宮殿における「父の宮殿」として大変重要な存在であり、親族の拡大にあわせて増築されてきました。またウブドの最初のホテルとして、1930年に宿泊客のために門戸を開いています。こじんまりとしたホームステイ形式のホテルですが庭園の中にある東屋などの木製レリーフには金箔がほどこされ、威厳と風格を感じさせてくれます。
プリ・サレン・カンギンはプリ・サレンの東館(カンギンとは「東」という意味です)として、ウブドの王族の個人邸宅になっています。正面にはヒップでくつろいだ雰囲気のプリズバーがあり、80年代にはボヘミアンたちの憩いの場として賑わいました。
プリ・サレン・カウー
カウーは「西」という意味で、西洋風の宮殿です。宮殿内には宿泊設備もあり、プリ・サレン・アグンのレセプションにて予約を受け付けています。
プリ・カントールはプリ・サレンからスウェタ通りを渡った場所にあり、前庭には王族たちの当時の貴重な車が置かれる駐車場があります。カフェがあるほかプリ・カントールに隣接してバニヤンツリーバンガローが位置しています。宮殿にちなんだエスプレッソバーが、スウェタ通りにあるメインゲートの北側にオープンする予定です。カントールとは「オフィス」という意味で、在住の王族によると当時プリ・カントール・ソスロバフがあった大きな池にそびえ立つ「パコダ」があったことからユーモアで名づけられたのだそうです。当時のウブドはどちらかといえば質素な村落で、数階建ての建物は地元の人々にオフィスビルを思わせたとのことです。
プリ・カントール・ソスロバフはプリ・カントールの姉妹宮殿にあたり、どちらも最後の王族の最盛期に建てられました。王の2人の妻たちがひとりひとりの住居として与えられたものです。「ソスロバフ」は、アルジュナが世界を制した物語の一部にちなんでつけられました。王族の長は「ソスロバフ」法と呼ばれるハイウェイ陸橋の建築方法を発明し、陸橋建築で得た収入を使って建てられたことから建築方法がそのまま宮殿の名前となりました。プリ・カントール・ソスは、プラダと呼ばれるこじんまりとしたエレガントなホテルに姿を変え、レストランやワインバーも登場する予定です。静かなラウンジにはトラの剥製が置かれています。
プリ・カワンはアリーズワルンの裏手にある個人邸宅で以前は滞在することができました。現在ではアリーズやその関係者たちのもつ静かな邸宅となっています。カワン(ときにはカウハンとも呼ばれます)は「西」という意味があり、これは宮殿が街の中心から西側に位置することから名づけられたものです。
プリ・メナラは西端にあり、近年までバリ舞踊や文化を学ぶ場所として知られ、図書館もありました。貯蔵書籍は近年アルマという図書館に寄贈されています。ここにはバンガローやレストランなどがあり、街の中心地にある立地条件から全敷地を再開発するという話もでています。
プリ・サラスワティはラヤ通りにあるティノ・ドラッグストアを渡った通り沿いにあります。ウブドの王族関係者の住居として知られ、スイミングプールのついたバンガロースタイルのホテルを営んでいます。また正面ではカフェロータスやロータススタジオ、ムンブルレストランなどを経営しています。敷地の裏手には広大な蓮池や寺院があり、学問や芸術などの女神として知られるデウィ・サラスワティを奉っています。サラスワティの美しく真っ白な像は目を引くことでしょう。経営者のチョッワー氏は熱心な愛鳥家であると同時にハム無線や車の収集家としても知られています。
プリ・アニャールはスウェタ通りを東側に登ったところにあります。正面にはカフェ・アニャールがあり、数人の外国人家族が暮らしています。
プリ・ムワはモンキーフォレスト通りの東側、中央交差点を南に120メートルほどの場所にあります。王家の親族は、とても安価なバンガローを2棟経営するほか、3軒の店舗、カフェ、薬局、水曜日と日曜日には診療所を行なっています。
Peliatan Kingdom History (Year of 1775 – 1946 ) プリアタン王国の歴史(1775-1946年)
プリアタン王国はスカワティ王国の一部として「キ・バリアン・バトゥール」の反乱からはじまりました。キ・バリアン・バトゥールは強力な黒魔術をあやつり、「ティンブルの村」(スカワティ)の人々を、不安と恐怖の日々に陥れました。そうした中、メングイ地区の首相であるキ・ベンデサ・グニアールはこうした状況を危惧していました。
キ・バリアン・バトゥールを殺すことができる唯一の武器は、クルンクンのキ・ラランタカ王のもつキ・セリクシクという弾丸でした。
スカワティ王国の王族間でおこった「兄弟の戦い」の後、1775年にイ・デワ・アグン・マデがプリアタンの新しい国王として就任しました。 1800年にデワ・アグン・マデ王が死去すると彼の後継にデワ・アグン・ブンブンガンが二代目の王となり、その後3代目をデワ・アグン・ジェランティック王、4代目をデワ・アグン・ブンブンガン王、5代目をデワ・グデ・アグン王、6代目をデワ・アグン・グデ・アグン王、7代目をデワ・アグン・グデ・ラカ王、8代目をデワ・アグン・グデ・ングラ王、1924年から1946年までは9代目のチョコルダ・グデ・ライ王が治めました。
最後の王であるドゥワングン・グデ・ライ王は芸術家であり、プリアタンのグヌンサリ・レゴンダンス舞踊団をヨーロッパに紹介すると同時に、「ピタマハ」と呼ばれる芸術家財団を創立しました。インドネシアの独立戦争時代、ドゥワングン・グデ・ライ王はイ・グスティ・ングラライの戦闘部隊に加わり、1946年11月11日にケデワタン墓地にて逮捕され殺されました。王の死後、弟のイダ・チョコルダ・アリット・プトラが王位を継承しました。
これが171年続いたプリアタン王朝についてのあらすじです。
プリアタン王国 もしくはプリ・プリアタン
3.5ヘクタールもの広大な敷地の中には美しい装飾をほどこした門があり、敷地内は人間の身体を模して3ヶ所に分かれています。頭をあらわす王族寺院、腹部をあらわすスマンゲン、プリ・ランキ、プリ・アグン、プリ・アニャール、プリ・セマラバワなどの居間、脚部をあらわすアンチャックサリです。
アンチャクサリはプリ・プリアタンの外側にあり、近辺には数軒のビルがあり小会議室、警備室、ワンティラン、屋外ステージなどがあります。
スマンガンは、歯切り式をはじめ王族の葬儀など特別な儀式をおこなう場所です。
プリ・ランキはレセプションで王が存命中は会議場としても使われていましたが今日では王族の住居となっています。
プリ・アグンは王の存命中の宮殿でした。王は「グドンベテル」と呼ばれる北側の建物で暮らしていました。宮殿と王妃の暮らすプリ・アニャールの間は接続扉でつながれていました。
王国の別の場所にはプリ・セマラバワと呼ばれる宮殿があり、ここには側室が暮らしていました。王族の住居の敷地は他のバリ人の住居とあまり変りませんが、家族の大きさや裕福さによって差があります。けれどもその建築様式はアスタコサラコサリと呼ばれ、すべてが統一された建築様式になっていました。
プリ・プリアタンの王家の敷地を見学した後、日曜日の朝に子供たちのバリ舞踊教室が開かれるバレ・ルンステージを見学します。その後は村落周辺を散策し、バリの家屋や木彫り職人や画家たちが多く住む村人たちの日常生活を垣間見ていきます。また田園内をジョギングすることもできます。
ツアーの終わりにはプリアタンのテゲスにある公共建物にて集合します。
[プリ・プリアタンの書物を元に、カマンダルリゾート&スパのゲストアクティビティーマネージャーが作成しました]
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